鎮宅霊符

 

≪星田妙見宮所蔵・霊符版木≫

 

 

「太上神仙鎮宅七十二霊符」の由来

伝説によると、この霊符の謂れはこうである。
漢の孝文帝は、家相・風水の術に通じていた。その孝文帝が、弘農県(こうのうけん)を行幸した時、最悪の大凶の家相を持つ家を見た。この家は「三愚(さんぐ)」と言われる大凶の相を全て備えていた。すなわち、宅前が高く後方の地が低い一愚、北側に流水がある二愚、東南方が高く西北方に平地がある三愚である。
これを見て皇帝は、この家は衰退しているはずだと思ったが、なぜかその家は富み栄え、家族は全員仲良く健康そのもの。裕福に幸せに暮らしている。 不思議に思った皇帝は、その家の主である劉進平を召し出して、理由を尋ねた。彼が答えるに、確かに昔は災難が多く、一家は不幸でした。ところがある日、二人の書生が尋ねて来て七十二枚の霊符とこの祭り方を伝授してくれたという。この修法を実践すれば、十年にして金持ちになり、二十年にして子孫繁栄し、三十年にして白衣を着た皇帝が家を訪ねてくるまでになるだろう、と。その後、劉進平は、金持ちになり、子孫繁栄したが、未だに白衣の皇帝が尋ねてくるという予言だけは、まだ成就しておりません、と答えた。これを聞いて驚いた孝文帝は、我こそが皇帝である、と名乗った。そして、これほど霊験あらたかな霊符は、ぜひ世に広げるべきだとし、天下に伝え施したという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊験無比なる「太上秘法鎮宅霊符(たじょうひほうちんたくれいふ)」

【太上神仙鎮宅霊符】

「太上秘法鎮宅霊符」と呼ばれる七十二種の護符。現在の所、道蔵の『太上秘法鎮宅霊符(たじょうひほうちんたくれいふ)』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられている。陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容された。この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられている。玄天上帝は玄武を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体であった。それ故日本へ伝来すると妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えている。星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われる。

当宮に伝わる「太上神仙鎮宅七十二霊符」は日本では最も有名な霊符の一つである。陰陽道最高の神ともされる「太上神仙鎮宅霊符尊」は神通第一にして霊験無比なること、この天尊(七十二霊符)に及ぶものはないとまでいわれた。大峰山よりも七年前に修験道の根本道場とされた日本最古の霊場である犬鳴山は役小角によって開かれ、役小角自らが霊符の神様・鎮宅霊符神をお祀りしている。役小角は熊野権現と鎮宅霊符尊を御同体であると見なしていたようである。

赤城峰霊符山太陽寺を中興した弘宗禅師の書である『太上神仙鎮宅霊符考』並びに後の同寺の住職甫童が文化五年に刊行した『霊符縁起修法伝』によれば、当地は唐天台山より赤山権現が飛来した霊地で、聖徳太子が一刀三礼して彫刻した鎮宅霊符を本尊として祀っていたが荒廃。その後弘宗の夢に一人の翁が現れ、禅師を当地に導いた。そして禅師は大用禅師から伝教大師縁の霊符法ならびに霊符曼荼羅を伝授され、太陽寺を拠点に鎮宅霊符神信仰を広めたという。

奈良市の鎮宅霊符神社は、『元要記』(鎌倉時代)によれば、「鳥羽院の御宇、永久二年(一一一七)年正月、興福寺に行疫神(こうえきしん)(疫病神)の社壇が建立され、南都四家の陰陽師(おんみょうし)がこれを祀る」とある。

烏丸鞍馬口から東へ少し行ったところに黄檗宗の尼寺瑞芝山(ずいしさん)「閑臥庵(かんがあん)」がある。江戸時代初期、後水尾法王の枕元に鎮宅霊符神が立ち「我を貴船の奥の院より洛中へ勧請せよ」との神託を顕した。そして後水尾法王の子、霊元天皇が現在の地に寛文一一年(一六七一年)遷座せられたのがこの鎮宅霊符神の御廟である。王城鎮護の為に貴船の奥の院から鎮宅霊符神をこの地に歓請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山(おうばくさん)萬福寺管長千呆(せんがい)禅師を招いて創建したといわれる。この鎮宅霊符神を開眼したのが、当時の陰陽師である安倍晴明であると言われる。

つまりこの神様は安倍晴明ゆかりの神なのである。明治初期には伝空海作の鎮宅霊符神をここに安置したと言われている。
群馬県高崎市鼻高町の少林山達磨寺 霊符堂はかって曹洞宗寿昌派の祖の東皐心越が鎮宅霊符神を伝来し、前橋城の裏鬼門除として創建されたという。このように仏教寺院にも大いに信奉され、空海・最澄を始め、楠木正成・加藤清正などその霊験に帰依した歴史的人物は、数多にのぼる。